優しい人が、なぜ後ろ指をさされて、弱い立場になってしまうんだろう…。
どうにかならないのかな。
優しい人が、優しく生きて、この世界を快適に生きれるようにしたい!
そんな想いが、物心ついた頃から私にはあります。
純粋で、素直で、正直で、誠実で。
そんな子供の頃だけに感じて見えて体感をする特殊な能力が私にはあります。
頭の中にエネルギーしか感じない純粋無垢な時期は、お母さんのお腹の中にいる時から1歳までくらいですが、40歳を過ぎた私はまだその能力と共に過ごしています。
その能力のおかげではありますが、私は様々な異常から卒業できる生きづらさ卒業法を創案しました。
皆様にスクールとして教えています。
どこに行っても治らない、こころ、身体、状態、などの幅広い世代の生きづらさを卒業する方法です。
「病や障害は自分で卒業する!虚弱体質卒業スクール」このスクールを生きづらさを感じている人々に教えています。
ちなみに私の趣味は、お菓子作りと電子書籍の読書と裁縫と生きづらさの研究することです^^
最近は草刈りや日曜大工や様々なDIYをしていて家の修理にハマっています。
今回は、なぜ私が能力に興味を持って事業を行なっているのか?そんな原点につながる私の生い立ちや小さい頃の出来事を書きたいと思います。
少しのお時間ですが、よんで頂けると嬉しく感じます^^
私の生い立ち
私が生まれたお祝いを本家のため親戚が集合しています
私は群馬県太田市で生まれ育ちました
実家は八幡宮と白山神社がくっついたお家です
父方の神社
母方の神社
(2020年6月撮影)
以前は父方の八幡宮の土地も所有していて、ここら辺一体の山を持っていたそうで、
神社の鳥居のように見えますが、私の父親が七五三の時にお祝いで建てたものだそうです
父方の祖父は大工、祖母は蚕を育てて絹糸の製造
母方は助産院
母の実家は代々の巫女家系で
お祓いや神降ろしなどで人々を浄化していたようです
その気質のためなのか、生まれた頃から不思議な事が沢山起こっていました
これは35歳を過ぎて母から聞いたお話になりますが、この影響なのでしょうか?
定かではありませんが、
私が生まれて間もない頃に
母親に抱っこされて散歩をしていた道中、
なんとも言えない温かい幸せな光に包まれたそうです
とっても、いい気持ちで幸せな気持ちになったそう…
そのせいで私は特別な能力が生まれつきあるのか…。
私は赤ちゃんの頃から気に敏感だったようで、予防接種などの会場に入ることなく泣きじゃくり
注射を受けられないことがほとんどだったようです。
そして
人や物のオーラ・チャクラ・波動・後ろの見えない存在
(その人の想念が私には映像で動いて見えていました・守護しているもの(地蔵・神・恐竜)なども見えていて、
それが特別だとは感じてきませんでした
それでも不思議な体験は続きますが、
今思えば、
みなさんの生きづらさを卒業させるために必要な能力を私は生まれつき持っていたんだなと思います
私はもともと元気いっぱいな女の子で、小学生に上がるまではみんなの真ん中にいつもいるような明るい子でした
なんでも出来て
手を挙げて自分で立候補をして鼓笛隊の指揮者になったり、バレエのダンスをしたりと
とても活発で歌も踊りも大好きでした
4歳から17歳まではエレクトーン・ピアノ・水泳・英会話・塾など、
学校が終わると習い事の毎日を送っていました
運動神経は良くて
中学生ではマラソンでは目を瞑りながら走ったとしても10位以内に入っていましたし、
部活動はソフトテニスに所属しており1年生で選手に選ばれていました
私はたくさんの賞を小さな頃からいただく子でしたね
←まだ賞状が沢山あるので、まとめられたらUPします。
しかし、あきらかに身体の異変が出現していきました
今思えば、少しづつ小学校あたりから、自分の身体の異変がありました。。
目が見えにくくなったり、身体が動きづらくなったりしていたんですね
なぜか、縦にしていたまな板のような木の板の上をまたいだときにストンと身体が落ちてしまい
かなり痛かったこともあります
あれはびっくりして痛すぎて保健室へ駆け込みましたね。。
この頃はまだ人に言葉を伝えることができていたように思いますが。。
小学生になって徒歩での登下校が始まり
光がすでに苦手で目をつぶりながら歩いていました
当時はそれが普通だと思い気にも留めていませんでした
中学生に上がると、異常が自分でも分かるぐらい表面化していきました
字は頑張って書いても汚くて読みにくい字になり、
授業中に教科書を読む順番が回ってくるとパニックで字を読むことだけで精一杯、文章の理解など程遠いものでした
中学2年生の後半に生理が始まり
さらにグッと体は動かなくなっていきます
手で机を持ち、足で踏ん張っていないと机と椅子には座っていられなくなりました
そこに居るだけで血の気が引くような感覚で、身体が無くなっていくようでした
この頃くらいから不安感や恐怖感などがひどくなっていったように思います
光のまぶしさも、音も不快さも、不安感や恐怖感も、
話すことも、書くことも、読むことも、
何もかも
日常生活がガクッと一気に出来なくなっていきました
しかし、私は頑張って耐え続けます
病院の検査でも正常という判断でしたし
この状態が私にとって日常と化していた為なんですが
中学校を卒業するころになると
ディスレクシア症状と共に目がまったく使えなくなっていました
文字も人の顔も見えづらい状態で、身体が押しつぶされている感じが続き、悲鳴を上げていたのです
座ることも、立つことも、必死にならないと出来ない状態に気付くとなっていました
小さな頃から
遊ぶこも、話すことも、手紙を書くことも
大好きな普通の女の子で、
文通は保育園の頃から中学生の頃までかなり頻繁に
5人くらいの子たちとやりとりをしていましたし、
授業中にメモ用紙に言葉を書いて友達とずっとお話をしていたり
学校が早く終わる日などは、友達と下校してお家によって遊んで帰ったり
少し遠い公園に友達と寄ったり、草道を歩いて帰ったりと
毎日が楽しくて笑っている子でした
母もそうですが、正直に話せる相手が私くらいしかいない、
みんなのお話を聞いてその人の人生を知っていることが
小さな頃から私の人生ではかなり多かったなと思いますねぇ
その後、
私の人生はガクガクガクっと転げ落ちていき
頑張ってもどんなことをしても苦痛が人生を覆うようになります
学校前か学校後に、毎日、病院に行く日々
母の車での送り迎え
そこにいるというだけで精一杯な状態
しかし、それでも私は必死に頑張って
ゆっくりでも自分がカクカク動いていたとしても
不安や恐怖や混乱やパニックが付きまとっていたとしても
やれば出来る!
がんばれば出来る!
頑張ろう♪
そんな私でした^^
そうなってから、ず~っと地元の色んな病院に通いました
しかし、改善されることはありませんでした
こんな状態は嫌だ!私が甘えていて自立していないからだ!と思い進学の為上京しました
目が見えない、身体が動きずづらい、体に稲妻が走るほどの痛みが全身に広がるなどの症状はありましたが、その時、私が唯一お仕事として出来たこと、目を使わないモデルというお仕事を在学中から活動したり、みんなと遊んだり、お酒を飲みに行ったりと、大学に通ったりと普通の女の子と同じ生活をしていました
私は自分の写真が大っ嫌いだったので、このくらいしか手元に写真が残っていませんが、モデル事務所にも所属していました
日常生活が息をすることもつらい私にとって、目が見えずらい私にとって、そのくらいしか私がお金を稼ぐことって出来なかったです
私の生きづらさは加速する一方で、大学進学で東京に住むようになってからも病院にたくさん通い続けました
時間があれば、病院へ
それでも、肩こりさえ良くはなりません。。
全身に湿布を貼って過ごす日々が続き、痛すぎて呼吸ができなくなり救急車で運ばれたこともありました
目もディスレクシア状態や弱視は進み、授業で見えないときも多々あるようになり、
友達にノートを見せてもらうようになります
ノートを書きたくて机に手を置くのですが、その些細な行動でさえ、この時はつらくなっていました
授業に出席することも元々つらかったのですが、テストの日でさえ身体が動くことができない時があり
単位が取れないと卒業ができない科目であったため、
私の症状を苦手な自分の説明を教師に直談判しに行ったこともありました
私は人とは違う過ちをおかすことが小さな頃から本当に苦手で、これは本当に嫌でしたね、、。。
病院に行っても何をしてもどうにも改善しないため
自分でも自分の症状が少しでも良くなるようにと調べるようになります
服装の大学の授業内容と私の症状をPCで探してコピーしたものです
当時、授業中にも身体症状のことを考えていたようです
あの状態で私はよく学校に通い、このようにまとめられたなと今思えば感心をしますが、
残念ながら意味がなかったです。。
どんどんと感覚過敏や線維筋痛症はひどくなる一方で、学校以外は寝たきりになる日々を過ごしていきました
身体が限界で、寝起きをするのも限界
本当に辛かったです
上京してからというもの、沢山の良いといわれる病院には行きました
しかし、何も解決はしなかったんです
大学生時代は毎日が挫折をして挫折をして、人との違いを心の底から痛感する時期であり
本当にがんばってがんばってがんばって、それでも、がんばって生きていた時期でした
大学時代もたくさんの友達ができましたが、
一緒にいることよりも授業や自分の病を考えたかったため
私は友達はいいやと断ったこともありました
1人暮らしでできないことも沢山あって
本当に必死でもがき苦しみ
毎日毎日泣いてつらくてひどくて悲しくて、
辛かったです
それでも友達ができる私でしたが‥
また上京したころから、よくストーカーにあっていました
もう、こわくてこわくて
何度も引っ越ししていました
18歳で東京に上京をしてから能力の研究を始めた35歳まで
群馬県の実家 ⇨東京都 国分寺(寮) ⇨ 小平 ⇨ 武蔵野 ⇨ 本駒込 ⇨ 本駒込 ⇨ 亀有 ⇨ 亀有 ⇨ 群馬県の実家 ⇨ 武蔵新城 ⇨ 中央林間 ⇨ 玉川学園前 ⇨ 代々木 ⇨ 恵比寿 ⇨ 福岡県姪浜⇨福岡県今宿
17年間で15ヶ所に引っ越ししていますね
毎日、違う変質者がついてきていました
目が合うと歩道でも電車でも、どこでも関係なく隣にまで近づいてきて触られることもありましたし
バスを待っていると目の前が車道なのに私の手が届く場所で居座り私をずっと見る男性
電車から着いてきて違う車両まで、家にまで、ついてくる男性
最寄駅から歩いて15分の所にあるマンションに住んでいましたが家に帰るのに3時間かかる時もざらでした
大学3年生になってからは目立たない色で手首まで首まで露出のない洋服を着るようになります
帽子とマスクとサングラスとスタンガンと防犯用催眠スプレーを外出時には必ず身につけるようになります
それでも、怖い目に合ったり、襲われたり、包丁や突き落とされて殺されそうになったりと本当につらかったです
私は小さな頃から人に不快な思いをさせたくない、迷惑をかけたくない、という思いが強く
いつでもニコニコと笑顔でいることを心がけていましたが
そんな私の身体はボロボロ
こころは不安や恐怖でいっぱい
怖くて外出することができなくなり、
出かける準備ができているのに、出ようと思っても身体が固まることが増えていきました
マンション下のゴミ出しでさえいけない時もありました
そんなこんなで、ご縁があり福岡に住むことになりました
そこで、ある衝撃的なことがありました
それは、ある人との出会いにより私が人とは違う!ってことに気づけたたことです
人のオーラや波動などなど、みんなが普通に見えているモノだと思っていたのですが、
「それは普通は見えないよ、あなたは特殊だね」と言われたことで
私は人とは違うんだぁときづいたんですねぇ
純粋無垢な子供たちが見ている世界を私は大人になっても体験していたんです
それはこの世界の皆さんが不思議に思うようなお話しにさらになっていくのですが、今まで生きてきた私の人生は、虚弱体質の研究に没頭していた35歳という年齢にまでならなければ、日常のように繰り広げられいた、実際に私が体感をしてきた出来事ですので、気にも止めずに生きていたのです
それから色々調べて、私にはエンパスや逆エンパスなどの色んな能力がある事がわかってきました
エンパスとは何か、能力者とは何か・・・・
そこから、私の修行がはじまります
人の中で、自分として生きるための修行です
修行期間は約半年でした
毎日毎日、気を感じて学ぶ日々を過ごしました
そのおかげで、なんとか人の世界で生きていくことが出来るようになりました
その後、3年をかけて、人からの影響を受けることをなくし、自分らしく、楽しく、明るい人生を歩めるようにしていきました
誰にも教わらず、試行錯誤の連続で本当にツラかったです。
海に浮かぼうか・・・とさえ考えていました
だからこそ、こんな辛い思いをする人を助けたい!みんなが生きやすい世の中を作りたい!そういう想いで、このサロンをオープンしました
今まで私がしてきた修行は、誰にも教わることなく独自の感と経験で構築したものです
様々な能力がある私だからこそ、できた修行です
この独自のメソッドを必要な方にお届けするため、山崎ももこは日夜がんばっております
気善健康法はどうやって生まれたのか
そして
長くはなりますが、
私が生きづらさを卒業していった過程をご覧ください
虚弱体質の研究をし始めようと決心をした頃の私です。
32歳 2016年5月30日 東京都から福岡県へ
私が32歳のときに東京都から福岡県に移住をしたのですが、そのとき実は結婚をしようと思っていました。
移住をする少し前のお話です。
私は大手エステサロンにエステティシャンとして働いており、全店舗でトップ賞をいただいていたりもしましたので評価は良い方だったと思いますが、目ははっきりと見えていませんでした。
大手エステサロンで3年間働いた後に自分のエステサロンをしながらエステティシャンの友人に細かい技術や接客方法を教えていたりもしていましたが、この時も目は見えていませんでした。
目がはっきりと見えていない状態は13歳からつづきます。
「倒れた時」を書く前に、私の目の異常を記載しておきます。
私は小さな頃から目を使うことにまぶしさや苦手意識などがあり、たびたび眼科へ通っていました。
中学生に上がると目の見えづらさに加えて、様々な身体症状が出てきていた為、眼科以外に産婦人科や内科、整形外科などにも通うようになります。
高校生になると毎日病院通いをするようになります。
しかし、症状は改善することはありません。
大学の進学時期になると、東京都の有名な病院だったらこの異常が治るのではないかと思い、東京都に移住をしてたくさんの有名な病院に通うようになります。
毎日ちがう病院に通ってみたりもしました。
しかし、心や身体の症状は少しも改善することはありませんでした。
29歳の時にやっと少しですが見えるようになった治療に出逢いました。
ちいさな医院でしたが手術もするような先生で親身になっていただきました。
しかし、他の先生と同じく「治るか分からない」「むずかしい」と言われてしまい、また治らないのかと残念にも思いましたが、1つ違うところがありました。
他の先生とは違い「これをやってみましょう!」「これを今度は試してみましょう♪」と前向きな先生だったところです。
3カ月通うとほんの少しですが、つらさがなくなるような感じがしました。
こめかみに低周波の機械をつけて、電流を流しながら頭から背中、背中から腕までを丁寧にほぐしてもくださいました。
針のついた湿布を全身に貼る日々を過ごしながら
29歳から32歳まで私はお仕事と眼科の治療を毎日のように行き来をし過ごしました。
片道1時間の電車に乗り、毎日のように通いました。
しかし、また、身体の苦しさや痛みがさらに強くなり、目でモノがとらえられなくなってしまい、エステサロンを辞めることになりました。
少し目が見えるといっても、今の私のように普通に見えていたわけではなく、当時はこのような感じに見えていました。
この時もやはり全身がとても酷く激痛を感じながら毎日の生活をしていました。
〈通常見えていた私の視界〉
〈よく見えた時の私の視界〉
私の見え方には、見づらさに加えて、歪み、ブレる、にじむ、光る、眩しさ、動く、揺れる、湾曲をする、固まる、見ていられない、最初の文字に戻って進まない、などのディスレクシア症状がありましたが、その生きづらさも虚弱体質を卒業して正常に見えています。
エステサロンを辞めて半年経つと結婚のお話がでます。
私の目や身体を治してくれそうな機関は関東ではすべて行ってみましたが改善できなかったため、関東を離れてみようと私は思い福岡県に移住先を決めました。
移住をして、半年が経つと、結婚前提の方に言葉の暴力を受け始める事になります。
体罰は無かったのですが、物は投げられました。
私も物は投げ返しましたが、言葉の暴力は理不尽すぎてどうにもなりませんでした。
受けすぎて、たまりに溜まったのでしょう。
ある日のお昼過ぎ、私は机からバタッと倒れます。
全身に激痛が走り、腰から下が全く動かなくなりました。
本当に少しも動かなくなるものですねぇ
上半身は手が若干動く程度で、ヒジは動かない状態でした。
この時は私は一人で家にいてケータイは手の届かない少し先に。
パートナー(結婚前提の方)は博多でお仕事をしていて、まだ帰ってきません。
右側を下にして横に倒れたまま、冷や汗と身体が汗ばむ感じとよく分からない状態で、少し経つとトイレに行きたくなります。
パートナーが帰ってきたのは19時ごろ。。。
どう過ごしたか分かりませんが記憶がありません。。。
そして、帰ってきたパートナーは、なぜか驚いたり心配をする様子もなく、安心したかのようにも思える様子だったのが今振り返ると本当にぞっとします。
パートナーはエゴが本当に強くて、自分が本当に1番な人でした。
私が倒れた原因も精神的だと分かっていたので、「別れて下さい。出て行ってください。」とこの状態でも言っていましたね。
それでも「改善するから、もう少し様子を・・。」
おむつやご飯などは購入してきてもらえました。食べさせてもくれました。
はじめは首を横にすることも激痛が走り出来ませんでした。
私は中学生の頃から痛みが全身にあったので、痛みにはとても強くなれたものでしたが、
この時の痛みは尋常ではない痛みで、息が出来なかったのです。
何度、救急車を呼ぼうかとケータイをにぎったかわかりませんが、十数年間の経験で、大きな病院には死んでも行きたくありませんでした。
病院を転々としている方は分かると思いますが、原因や悪い場所の検査結果が出ないと何も解決はしません。
私は3週間、この激痛に耐え、やっと横になるくらい、ほんの少し身体が動くようになると近所で腕の良いお医者さまがいないかと探し始めます。自分ではケータイをにぎれない状態だった為、パートナーに探していただきます。
歩いて10分もしない所にありました!
「ほねつぎ」をしている小さな医院でした。
早速、パートナーに予約をしていただきます。
やっとやっと歩ける身体で1人でケータイの地図を見て探しながら行きました。
一歩一歩、歩くたびに激痛の走る身体をひきずりながら「ほねつぎ」へ必死の思いで向かいます。
後から思うのですが、パートナーは午前休などの希望はすぐに取れるお仕事でした。
なぜ一人だったのだろうと不思議に思います。
今となってはこの時のパートナーはとてもエゴが強く他人のことが考えられない
脳疲労を起こしている状態だったなと思います。
夜になると足がムズムズして眠れない症状が出ていましたし、
いつもピリピリとしている人でした。
。。。
そして、やっとのおもいで「ほねつぎ」につきます。
「うちでは見たことないくらい酷い状態」と院長。
受付の方にも「私も相当ひどかったけど、あなたは本当にひどいわね。ずっとここの受付をしているけど、こんなにひどい人は見たことがない。」と年齢は60歳くらいの方でした。
ハーーーーー。と
心底疲れてしまっていましたが、頑張って通います。
2、3ヵ月通うと「メタトロン」を受けてほしいと言われます。
改善が遅いと判断した院長は機械を導入しました。
この機械は自分の身体や性格、自分にとって合うものが分かります。
例えば、
食べ物だとトウモロコシが一番足りていません。
お米は身体に合っていません。
豚肉は絶対に食べてはいけません。
性格はイライラしやすく短気です。
身体の部位では頭が1番ストレスが多いです。
など、様々なことがヘッドホンを装着するだけの検査で分かります。
そこで、なぜか私の性格に「怒りと苛立ち」と出たのです。
私はもともと穏やかな性格で楽しく過ごしていたので「これはあっているのかな?」と性格だけは疑問に思いました。少し後で分かるのですが、エンパス能力があるためにパートナーの性格をもらっていたようです。
「メタトロン」という機械の検査や院長に言われることはいつも衝撃的でした。
「姿勢を正して座っては行けません。足首をクロスをして足を開いて座って下さい。」
「おしりの片方にタオルを敷いて骨盤はずらして座って下さい。」
「牛乳は飲んではダメです。」
「お肉(牛肉かラム)を沢山食べなさい。」
「塩は山ほど食べて下さい。」
「ご飯は一切食べなくていいです。」
「野菜は取りすぎです。食べなくていいです。」
「ワインと日本酒なら飲んでもいいですが、ビールは海外のものを飲んでください」
など
私の今までの常識とはすべてが真反対でした。
本当に衝撃的でした。
私は必死に実践をしました。
1ヵ月後、自分の身体から熱量を感じるようになり、少し動けるようになりましたが、2年間試してみても普通には動けるようにはなりませんでした。
残念ながら、痛みとともに苦しさとともに生きる人生は続きました。
しかし、成果はありました。
その「ほねつぎ」に通っている間、たまたま院長に「~が見える?」「~は感じる?」と聞かれました。
私は「見えます。」「感じます。」と答えます。
何を言われたかは忘れてしまいましたが、私が今まで普通だと思ってきたことでした。
能力のお話しでしたね。
「それは普通ではないね。とても特殊。」と言われたのです。
その後も「~は見えますか?」など、今度は私が見えている事を質問しました。
すると笑いながら「それは普通ではないね。本当に特殊な事。」と返ってくるのです。
びっくりしました。
オーラも何もかも、私が見えている事がみんなには見えていなかったのですから…。
私が生まれた時から見えてきたこと、感じてきたこと、が他者は1つも見えない感じないなんて、聞かれたこの日まで疑問にも思いませんでした。
私は一体何者なのだろうか、なぜ他者と違うのかをインターネットで検索に明け暮れる日々を過ごします。
あまり見えていない目でしたが、毎日必死になって探し情報を得ようとしました。
私に能力があると知った日から2年間は信じられずにました。
みんなには本当に見えないのか感じないのかを試したり、聞いてまわったりましたね。
結果は本当に何も見えない聞こえない感じないと、能力がまったくありませんでした。
ひとつも?!とかなりの驚きと衝撃でした。
しばらくボー然としましたね。。。
私は能力者やスピリチュアなどにかなりの偏見がありました。
”怖い”や”近寄りたくない”などとも思っていましたので、自分が生まれつき能力をもった能力者だったことに本当に驚きました。
「人間には特殊な能力をもつ人がいる」
このことを知り、インターネットを使い、少しずつですが「能力」とは何かということを知っていきます。
そこで、居るだけで他者をヒーリングする能力をもつ人がいるという記事を見つけます。
「これ私だ!」と他者をヒーリングしていたから疲れていたんだなと分かったりもして、では自分で自分の体を!と試すと出来ました。
パタッと「ほねつぎ」に通わなくなります。
そして、その時のパートナーとはどうなったかというと「出ていって」と言いつづけ、毎日喧嘩しながら1年半が経ち、やっとやっと出て行ってくれます。
居なくなると今まで居た威圧感が大きすぎて「何か無くなってしまった。さみしいな。」と思うのですが、身体は正直で、離れてすぐにメキメキと調子が良くなり回復をしていきました。痛みはあるものの動けるように回復します。
そして、私はエンパス能力が人一倍強いために目の前の”人という人”に同調同化をしていたことにやっと気づくのです。
この能力の為に、人との関わりの中で他者の気持ちや行動に同調同化をして、相手の意見や行動をしてきたのです。
自分が見えていることや感じていることを今まで表現せずに来たという事です。
私は薄々感じ始めます。
この体調の悪さや目の見えない状態は、私のさまざまな能力を攻略していかなくては「少しも良くならない」という事なんだろうな、と。
体力も心も限界がきた34歳、独身。私は決めます。
「自分の考えが正しいのかを確かめてからこの世界を終わりにしよう♪」と。
中途半端に終わらすことが嫌だった私は、能力の攻略が本当に出来るのか自分の考えが正しいのかを確かめてから死のうと思います。
私は身体の異常以外は本当に恵まれていました。やりたい事はスムーズにできて、望んでいることはそれ以上のものが手に入りました。
本当に満足でした。
ちょうど海の目の前に住んでいましたし、死ぬなら迷惑はかけたくない‥と
「あ。海に浮かぼう!」たららたららたららら~♪~
と、いうことで。
修行をする場所は仕事をしながらが良いと思ったのため
2018年9月から、面接を受けて10社の仕事につき、働き始めます。
修行のできる場所を真剣に探します。
エゴや欲望のかなり強い人がウジャウジャいる場所を選びました。
2018年11月に10社から2社に絞り、2019年1月末に1社に絞りました。
2019年2月から能力の攻略だけに人生に捧げて真剣に能力の攻略をしていきます。
毎日毎日、人の気を感じ、ガードをしたり、浄化をしたりと様々なことを試しながら、能力のお勉強をしていきます。
そして、ここで疑問に思うことが沢山出てきます。
人間のエゴや邪念に対して分からないことだらけだった私は、毎日、兄に電話をしました。
「なぜ人間はこうゆうことをするのかな?」と。
沢山のなぜ?を毎日毎日「また電話をしてくるのかよ」と愚痴を言われながら、歯を食いしばり、能力の攻略をしていくのです。
修行に行った日は、もちろん帰ってくることも必死で、帰った来たら寝たきりになります。
全身のかなり強い痛み止めの薬とシップや塗り薬を病院で可能な限り処方していただきながら働きました。(この時は薬が効くようになっていました。ステーキと塩のおかげです♪)
毎日毎日、必死に攻略する日々を過ごしました。
本当に毎日毎日、苦痛の日々でしたね。。。
エゴの強い人というのはこんなにも他者を踏みつぶし、利益をぶんどっていき、それでも何にもなかったかのように平然と笑っていられるのでした。
理不尽な事ばかり言う人、自分のことしか考えない人、普通の人や特殊な人、人間とはどういう生き物なのか、この世界はどうゆう世界なのか、様々なことを勉強していきました。
凄い世界を見せていただけたので、とても良い修業の場を私は選んだなと思います。
何から何まで能力の攻略が学べる場所でした。
精神・感覚・人間関係・重労働・騒音・照明の明るさ・ロボットのような対応と人間らしい振る舞いと笑顔・機敏さ・対応力と応用力・丁寧さと正確さ・エゴ・欲・ねたみ・死・若い人からお年寄りまで幅広い念と想念など。
選んだ私「グッドチョイス」です♪
2019年9月には
私の状態は、目も普通の人と同じくらいに見えており、痛み止めの薬なども一切取らなくてよくなっていました。
全てがとても正常で、身体には痛みが少しも無かったです。
そして、能力の修行をしていた職場では、辞めないでほしいと言われて、辞めるのを少し伸ばして、2019年11月にめでたく無事に修行終了したのです。
職場のトップには一升瓶の大好きな日本酒を頂いたり、一緒に働いていた従業員には色紙を書いてもらったり、沢山のプレゼントをもらったりして、るんるんと帰宅をした私でした。
めでたし。
そして、
もちろん、この時はまだ死ぬことも考えていました。
やっと普通に生活が出来るようになりましたが、たくさんの目まぐるしい出来事をこなしてきた人生でしたので、何もかもをやめて本当に死にたかったのです。
能力の攻略をしたら死のう、と決める少し前に、私はもう1つ誓ったことがありました。
私は能力を生かして占い師をしていたことがあります。私は逢うだけで他者をヒーリングする能力に長けていましたので、たくさんの人をヒーリングできたら嬉しいなという事でおこなっていました。自分自身のことも占いをすることがあり、そこには私は1年後に結婚すると出ていたため、それまで頑張ろう、すべてをささげて全力で能力の攻略をすると決めました。
←占い師のお仕事写真や攻略後の私も載っています
占いは当たると評判でしたが、私は自分の能力にまだその時は半信半疑でしたので、結婚が本当に出来たら死ぬことをやめよう。こんな誓いもしていました。
そして、本当にその時はやってきたのです。
本当に1年後に私は結婚をして死ぬことをやめるのでした。
その3年後
生きづらさから卒業をした私が思うことは、
自分の何が悪いんだろう…と毎日考え込み、毎日悩んで、毎日泣いて、トラウマになって、殺されそうになって、
そんな私の38年間は本当に辛かったなと思います
普通ってやっぱり本当に楽です!
育児に奮闘をしたり、介護に奮闘したり、ご近所付き合い、
自分や家族のお世話などなど
やりたいことってたくさん人生にはあると思います
やりたければ、とことんやれる自分
やりたくなければ、丁寧に不快なく断れる自分
あれだけヒドい状態だった私が普通になれた
これって本当に私の人生でかなり貴重であって考え深い心情になります
もし私が能力の攻略をしていなかったら、もちろんこの世にいません。
これはハッキリと言い切れるほど明確ですが
すべては気を整えられれば卒業ができるものでした
すぐに体調不良になるも、体力がないことも、身体の凝りや痛みが尋常ではなくどこに行ってもダメなことも、卵巣の痛みがあり下血がつづく生理異常も、寝たきりになることも、光に音に敏感過敏なことも、目が見えないことも、文字が読めないことも、人が気になってしょうがないことも、人の影響を受けやすいことも、人の気持ちばかり考えてしまうことも、自分の何が悪いのかとぐるぐるすることも、不安や恐怖がつきまとい情緒不安定になることも、激しい躁鬱を繰り返すことも、こうじゃないああじゃないと頭の中に浮かんでくる言葉も、眠たくてしかたがないことも、悪夢を見ることも、他人が私のことを毛嫌いすることも、なぜか嘘をついてしまうことも、自分の意見がわからないことも、良い悪いの判断ができないことも、人間関係がうまくいかないことも、死ぬことが頭から離れないことも、毎日違う人にストーカーに遭うことも、殺されそうになることも、
障害も異常も異変も目に見えない不快な現象や状態なども、すべてが気の異常で起こっていることでした。
私と同じように辛い人生の中にいる方へ
その辛い人生は、本当は自分で選んでいるものでした。
自分の人生は自分で作っていると異常から卒業をした今、私は思います。
その生きづらさは卒業できます!
一緒に生きづらさから卒業をしましょう!
虚弱体質の専門サロン MomocoAcademy
創始者 山崎ももこ